2018年01月19日

自分のスキルと自分のツールで平気な顔してやっていく

たとえば、絵を描こう、と言うと、レンブラントやベラスケスのようにやらなきゃいけないと思い勝ちだ。
レンブラントのような絵を、レンブラントのように描くのであれば、レンブラントと同程度のスキルと、レンブラントの使っていた道具が必要だ。

しかし、あなたはあなたの芸術をやりなさい、となれば、自分のスキルと自分の使えるツールでやるのが正解だ。
芸術は必ずしも職人芸ではないから。

相手の調子に合わせようとするから、あれもないこれもない、と自己嫌悪に陥る。

自分のスキルと自分のツールで平気な顔してやっていく。

これが芸術であり、人生だ。

その道中で、新たなスキルを身につけ、新たなツールを学べばいい。

この生き方を貫くには、ぼんやりとでも神様的な存在を意識する必要がある。
なぜなら、あなたの芸術は人々には評価されないからだ。少なくとも、すぐには評価されない。だから、必ず、自分のモチベーションが落ちる時が来る。何のためにやっているのか、いつも考えさせられる。


人の役に立つことってのは、世間一般では奨励されることなんだけれど、そればかりになってしまうと、責任の所在が他人になってしまう。
まして、自分の趣味の世界まで、責任を他人に持たせては意味がない。
ぼんやりとでも、神様のためにやる、のような意識が必要になる。

世間のこと、神様のこと、自分のこと。これらのことを考慮してやっていけば大丈夫です。

バランスよく。


まあ、レンブラントの例でいえば、レンブラントの絵には注文主がいたわけだ。貴族とか。美術館に飾ることは考えてないわけ。クライアントの喜びそうな絵を描くんだよ。
大抵は、浪費家で知性の欠片もないようなのがお客さんで、その顔を、知性と重みのある顔に描いたからレンブラントは受けたんだ。
で、レンブラントは工房として仕事をしていたので、多くの絵はほとんど弟子たちが描いた。で、レンブラントが最後にちょっと手を入れたりしたんだろうな。
このことから言っても、いまのアートやアーティストの感覚とは違うんだろうな、と思う。言わば、芸術屋さんだね。


posted by TT at 17:13| Comment(0) | ツキを背負ったカモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月18日

そのアートは本当にあなたを救ったか?

芸術がわかるとか、わからないとか。
分かるんじゃない、感じるんだ、とか。

だけどAさんは何か感じたけどBさんは何も感じないってこともある。
そのときBさんは「自分には芸術がわかる心がない。感性がない」と思っちゃうんだけど、それは早計だ。

結局のところ、自分に必要かどうか、なのだ。 
自分に必要なアートというものがあり、そのアートには何か感じるのだ。感じるどころか、ものすごく強い刺激を受けるだろう。なにか行動を起こしたくなるだろう。

だから、ある作品がいいとかわるいとか、美術史におけるエポックメイキングだとか、そなことはあなたには関係がない。

芸術は、あなたの養分なのだ。
そのアートは、あなたに食べられるために産まれてきたのだ。

アートを体内に吸収し、あなたは、大きく、強くなっていく。


熱狂的なファンのいるアーティストがいる。
そのアーティストもファンも、どこか病んでいることが多い。
そして大抵は、10年経っても彼らは変わらない。同じような作品を繰り返す。

「生きていることが辛くって、何度も死のうと思った。でもそんなときこの音楽に救われた」とか言ってるファンがいるでしょう。
しかし、そのファンの人が何年経っても熱狂的なファンをやってるんだよ。
救われたんなら、立ち直って、なにか頑張れよ、と言いたい。
つまりは、その音楽とか作品は、一時的な気晴らしでしかなくって、しかもそれに依存してしまって、まったく救いになってないんだよ。
ちゃんと養分になってない。
栄養のないアートなんだな。

そして、そのアーティストも救われてない。

posted by TT at 17:55| Comment(0) | ツキを背負ったカモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月14日

生きるとは自分自身を捨てていくこと

およそどんな生物でも、生きるというのは異物を外から採り入れて、自分自身(だったもの)を捨てていくことです。
肉も野菜もご飯も、いずれも外部の異物です。
これらを採り入れて、自分自身を捨てていく。
これが生きること。

頭の中も同じ。

伝統芸能も同じ。

じゃないと死にます。

posted by TT at 23:53| Comment(0) | ツキを背負ったカモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする